property="og:title" content="ページタイトル" /> property="og:image" content="画像URL" /> 2014年03月はみ出し者の閾値
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袴田事件の袴田巌さんが釈放された。
48年間も獄中で人生を送らされたのだ。
30歳のにーちゃんが、78歳のじーちゃんになるまで自由を奪われたのだ。どう考えたって許せない!!!


私が袴田事件について知ったのは、私がまだ髪を逆立てた生意気なガキだった頃だ ( 「オイ、オメーは30歳になっても髪立ててなかったか?」 って言われそうだが・・。) 。 中学生の頃や高校生の頃に署名をしたのがそのきっかけだったのだが、 ≪証拠とされたズボンのサイズが合わない事≫ や、 ≪逃走経路とされた裏木戸のカンヌキが消火時にはかけられていた事≫ などは、その頃から既に言われていたことだった。
私が知った20年以上前から言われていたにもかかわらず、何故今まで無罪と言う判断ができなかったのだろう。
そこらへんがお役所の頭の固い部分なんだろうが、48年間と言う長い月日が、もっと短くなる可能性はいくらでもあったと思うのだ。もちろん、 「頭が固い」 だけでは済まされない。関わった人間の多くが、前任者や上司からの圧力やしがらみ組織が汚名をかぶる事が無いようにしたいお偉方からの圧力の前に屈したのであろうことは、想像に難くない。


そもそもの有罪判決にしても、当時の裁判官だった方が証言しているように、 「先輩からの圧力に逆らえなかった」 為に有罪になってしまったのだが、その裁判官だった方はそれを後悔して、すぐに退官し先輩の死後にこのことを告白した。
つまりは、一度の保身のための行動で、袴田さんの人生だけでなく、その方の人生も狂ってしまったのだろう。後悔するような良心を持ち合わせているなら、最初から圧力に逆らっていた方が良かったのだと思う。
しかし、世の中には良心が欠如した人間も多くいる。

人間は弱いし、社会的なしがらみもある。いわゆる風見鶏になってしまうのは、ある意味仕方がない部分もあると思う。
しかし、しがらみも何もないのに、風見鶏になったりする人間もいる。
今回の様な警察による証拠の捏造などがおこった時、必ず 「警察がそんなことをするはずがない。」 などと言う、 【しがらみもないのに風見鶏になる】 人間って、まだまだよく目にする (or 耳にする) よね。 
 「はずがない。」 だなんて、何故、そんな 【断定】 ができるんだろう?。

人間には、いい人も悪い奴もいるのが当たり前であって、 【ある集団の成員に全く悪い人がいない】 なんてことがあったら、それこそ非科学的な事だ (統計学的にはありえないことだ。) 。
それに、先の裁判官だった方の話でも解るように、面倒なしがらみや圧力があったりすると、自己の保身のために社会正義に反する行動をしてしまう人だっている (…と言うか、そうなってしまう人がほとんどだろう。 後悔の念から退官したこの方の様な、自分と向き合った姿勢を持てる人も少ないと思う。) 。

・・・・・にもかかわらずだ。
何で

【被害者=落ち度がある】 

【加害者=悪くはない】 

なんて、トンデモない発想
になるんだ?。



こういう人たちって、風見鶏ですらないのだろう
(私がガッコをクビになった時、様々な人が 「何故やめた?」 とか、しつこく聞きやがるので、仕方なく経緯を話したら、どいつもこいつも 「学校の先生がそんなことするわけないだろ。どうせ勉強しなかったんだろ。」 などと言ったり、 「嘘ついてやがる」 って顔を露骨にしたりした。 その時の体験では、こういう輩はだいたい9割くらい居たよ。 こう言う奴らが、結果的には、本当に悪い奴を野放しにしているのだと思う。 )






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2014.03/29 Sat 02:17|未分類 (あれこれ)||トラックバック(0)TOP↑
佐村なんちゃらさんを責めたてるマスコミの論理の矛盾と、それによって差別を助長しているように見えることについては、この投稿の前の2つの投稿で触れた (詳しくは前の投稿を読んでください。)  。
つまりは、 【自分自身が同じような耳にならないと解らないような、無神経で不感症な奴ら】 が、エラそうにメディアで講釈を垂れているのだ。 もちろん、医者までもがメディアで同様のことを言っている (彼らは、医師免許があるだけで、実際はただのタレントだよ。バカバカしい。) 。

私の生活の範囲内でも、早速、同じような事を言う奴がまた現れたし、私は怒りがおさまらずに、思わず手が出そうになってしまった (遠い昔に暴力とは縁を切った私に、こんな感情を起こさせるなんて、この世の無神経な人達は全員、是非バチが当たって、私と同じ・・・いや、それ以上に大変な耳・・もちろん両耳で・・・に、なっていただきたい・・・・・・・と強く天に願うよ。 ・・・・・・しかし・・・もし、この願いが実現したら、世の中は大混乱だぜ。爆笑 )  。
そして、聴覚障害を持つ友人たちの何人かからも、そういった話が寄せられた。
今回の報道の前からあった偏見が、報道後はパワーアップしているのではないかと思われる。

それもこれも、元はと言えば佐村なんちゃらさんのセイであるのだが、たとえ佐村なんちゃらさんがこんなことをやらかさなくても、多くの人の中に ≪もし、自分自身だったら、どうなんだろうか?≫ と考えた上でモノを言う・・・・という、人として当たり前の行動様式が欠けている以上、今回の事は (佐村なんちゃらさんをきっかけにして・・・ではあるが) たまたま表に出てきただけだと思うのだ。
つまりは、マスコミからの情報を受け取る側の一般庶民もまた、その多くが 【自分自身が同じような耳にならないと解らないような、無神経で不感症な奴ら】 であることを、私に改めて感じさせる出来事であった。

これら 【無責任な発言をする、無神経で不感症な奴ら】 の内、情報を受け取る側の人たちの情報源は、もちろん 【無責任な報道を垂れ流す、無神経で不感症な奴ら】 の報道 であるのだが、 【無責任な報道を垂れ流す、無神経で不感症な奴ら】 の、つまり報道している側の情報源は何なのだろう?。

そう考えると、
彼らもまた 【誰かが言った発言や前例に振り回されている】 だけの、
真偽を検証する能力も持たない (もちろん、検証する気もない) 人たちなんだろう。


そう感じたのは、今回の佐村なんちゃらさんの件で、もう1つ納得がいかなかったことを考えた結果だ。
その、もう1つ納得がいかなかったこととは、 『楽譜が読めなければ作曲できない』  という報道だ。

誰がそんなことを言い出したのだ?。 どうせ、負け惜しみの作曲家が言っているんだろう。
そして、それに乗せられて、マスコミも何も考えずに報道しているんだろう。

バカバカしい。
私は子どもが生まれてから、既に7曲作ったぜ (作詞&作曲だけで7曲だ。絵本にあった架空の歌に作曲したのが2曲だから、合わせて9曲作曲したことになる。) 。
楽譜は読めないけどな。必要になれば、各楽器のパートも作れると思うけど・・・。

つまり、はっきり言うと・・・、
私は逆だと思うのだ。  『楽譜は読めても、センスが無ければ、そこそこの曲はできない』 のではないかね?。
そして・・・、
口で歌ったフレーズを、他人に楽譜に書いてもらったら、作曲したとは言えないのか?。
だったら、目の見えない人は作曲できないことになるんじゃないかね?・・・・。


※追記※
そもそも、今回の佐村なんちゃらさんの一件では、おかしな話や、知ったかぶりなんかが横行している。
◇タクシーの中で 「普通に話していた」 と証言するタクシー運転手は、前を見てなかったのだ・・・ってこと?。
とか、
◇ “全聾” って表現そのものが、そもそもほとんど使われていない言葉であるのに、ここへきて独り歩きしている感があること (私は今回の件で初めて聞いたよ。そもそも、 「 “全ろう者” って、いるのか?」 ってことすら、意味が解っていない人たちが論じているのだ。) 。
とか・・・・・。挙げればキリがないくらいだよ。 呆れるよ。

そして、あの風貌の佐村なんちゃらさんなので、私は今回の事があるまで、佐村なんちゃらさんが目も見えないのだと思っていた。←これには、我ながら自分の思い込みに呆れてしまった (笑) 。





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2014.03/11 Tue 05:08|差別・人権・民主主義||トラックバック(0)TOP↑
佐村なんちゃらさんが謝罪会見をしたみたい。

記事をちょっと読んだだけだが、「名誉棄損で訴える」 とか言っちゃって、
『これ以上名誉棄損も何もあったもんじゃないのではないのか?』 ・・と思うし、
そんなこと言うと謝罪会見の “謝罪” がぶち壊しに見えるから、よせばいいのに。
・・・なんか、自爆会見だよね。
『この人、立ち回り下手なんだなぁ~』 ・・って思ったのだが、
その話は一旦横に置いておこう。



この会見の話で、気になったことがあるのだ。


まず、佐村なんちゃらさんがどの程度聞こえているか?
・・・ってのは私は知らんが、
相変わらず 『聞こえている』 として責めている人の根拠はバカバカしいモノであった。

私の場合の話をさせて頂くと
、現在の聴力の状態に慣れれば 『今の単語はたぶん、○○って言ったんだな』 と、
不明瞭な音から予測した単語の繋ぎ合わせと、口話の組み合わせで
話の大筋がわかるものなのだ
(←そういう場合もあるということ。あくまでも相手の声の質や、
 反射物の有無や位置、周囲の雑音の大きさやその雑音の音域など
  ・・・の条件が良い場合のことなのだが・・・。口話だけでは不可能だ。
 「私と口話で話せ」 とか、ひと昔前の人権無視のろう教育かよ、バカバカしい。
  そんなことできると思ってんのか?。両耳自分で壊して、お前がやってみろよ!
。)
(もう一つ、但し書きをさせて頂くと、私の場合はマシな側の聴力は、
 それが両耳揃ってさえいれば日常生活にはほとんど影響しない程度であるので、
 このマシな側があるからこそ、条件が良い場合は相手の話が理解できるのだ。) 。

そういうことは、実際に音の質が障害される難聴になってみないと、
全くわからないんだろうなぁ~


・・・ってのが、この会見での報道陣の質問に対する、
私の感想・・・・と言うか怒りの起きる部分でもあるのだ
(音量の問題だけが難聴だと思っているらしい。
 まっ、私が色々な人に、神経解剖学的な音の入力に関する説明を図解で行っても、
  理解されない事がほとんどだもんな。
   「補聴器付けろ」 っての、本当にムカつくよ。
    不明瞭な音を増幅してどうすんだよ!、バーカ!。) 。

ただ、佐村なんちゃらさんの言う 『ねじれて聞こえる』 ってのが、
私の耳で言う所の 【雑音】 ってのとはまた違うのかもしれんので、何とも言えんがね・・・
(ちなみに私の場合は、使えない側の耳の拾う音は、痛みの様な 【完全な雑音】 であり、
 マシな側は、【場合によって(相手の声の質や、対象となる音の音域によって)、
  濁りがある (雑音まではいかないが、綺麗な音でない感じ) 】
   ・・・って、説明するのだが、全く分かってもらえない・・・。
   マシな側は、子どもの頃からこんな感じだな。
    今使えない側が使えた頃は、ほとんど不自由はしなかったのだが・・。) 。

まあ、
どうせ、実体験しないと
【人それぞれの事情】 が分からないような人たちには、
何を言っても理解されんよ。


・・であるので、この件もこれ位にしておこう。
こいつら報道陣の質問に感化されて、同じようなこと言って責めてくる人が
これまで以上に増えるであろうがね・・・・ (ウンザリだゼ。) 。



・・・前置きが長すぎたが、気になったことの本題に入ろう。

なんでも、被災地で義手の女の子の義手を外させたとかなんとかで、
報道陣に責められたらしい。
このことがいいか悪いかは、その女の子にしか決められないよ。
このことについて今回は少し書かせて頂きたい (以下)
(佐村なんちゃらさんとその子との関係がどうとかは、私しゃあ知らんよ。
 あくまでも義手を外したとか外さなかったとかの部分でのことについてだ。) 。


後天的に障害を持つと、普通はそこで一旦どうしていいかわからなくなったり、
【障害を持ったという事実】 を受け入れられなかったりする。
当たり前だ。これまでとは生き方を変えなければならなくなったり、
不自由な思いをしなければならなくなるのだから。

だが、生きていくためには、障害を受け入れなければならないし、
障害を持った今の自分に合わせた生活上の行動様式に変えたりして、
生活を継続させねばならない。

これを、【障害の受容】 と言うのであるが、
障害の受容は何も行動上のことだけではない。

仮に、障害に対する偏見を持っていた人間が障害を持った場合、
自分自身の偏見を捨てなければならない。
つまり、≪障害=『恥ずかしい』≫ ・・・と、
考えていた自分自身から脱却しなければならない訳だ。

これもまた、障害の受容なのだ。

・・・・で、佐村なんちゃらさんの行動は、
少女が 【そういう意味での障害への偏見が、障害を持つ前から元々無かった】
or
【元は偏見があったとしても、現在は障害の受容ができている】
との前提の行動であり、その少女との関係が確かであった
(あくまでも、当時のこととして) のであれば、何ら問題はないのかもしれない
(関係が薄かったのなら、やはり大きな問題であることは言うまでも無い。
 一応書いておく。 そして、何故 『かもしれない』 と書いたのかは、
  この後を続けて読んでいただければ、理解していただけると思う。) 。

もちろん、佐村なんちゃらさん自身が障害を受容できていないから、
嘘をついて世の中に出ている訳である
ので、
『オメーが他人の障害受容についてとやかく言えねーだろ!』 ・・って、
言ってやればいいのであるが・・・
(苦笑) (但し、障害の受容って難しいものだよ。) 。


・・であるので、報道陣は、障害受容の方に話を持って行った上で、
私が汚い言葉で上記したように
『あなたが他人の障害受容についてとやかくは言えませんよ。
だって、嘘をついてやって来たってことは、
あなた自身がご自分の障害を受容していない訳ですからね』

・・って、素知らぬ顔して言ってやればいいのだ。

だが、そう言わずに、ただただ、『何故?!』 とか、
『外せば感動すると思ってんのか?』 と、責めるのは、

≪【義手を外した姿=人に見せるもんじゃない】と、
義手をしている人が思っているはずだ≫

・・・と言う、決めつけ
なのではないかと思うのだ。

(もちろん、佐村なんちゃらさんは 「義手を外せば感動する」 ・・と、
 本気で思っている困った人なんだろう。
 けれど、「演奏に感動するのでは?。」・・って、世界中に数人いるかどうかの
 “よほどの天才” じゃあるまいし、そんな事そうそう無いことわかってんのに、
  ワザワザ綺麗事を言って嫌味を言うよりも、
  私の言う “自分ではなく他人に対する障害受容の押しつけ” で責めてやる方が、
   性格悪く見えないよ。)

つまりは、仮に
その質問をした人自身が、【見せるべきではない】
などと言う差別意識を持っていなかったとしても

 一般的には障害を見せることが忌まわしい事≫ 
と言う前提に立った発言だ

(神山なんちゃらさんには、『障害は見せるべきではない』 ・・という、
 時代遅れな差別意識派とは持っているとは思うけどね。) 。 

そして、
この意識こそ、
この国での差別の根本にあるモノだと思うのだ。


佐村なんちゃらさんが本気で思っている 【感動】 もある意味で差別的であるのだが、
それ以上にこの様な 【障害は隠すべきモノ】 という前提に立った
こんな言葉が堂々と出てくるのは、
まだまだ 『障害者は隠せ』 とされた戦前から全く変わってないのかもしれんなぁ~。
・・・って、私は感じたんだ。
アベチャンの目指す “美しい戦前” って、今とあんまり変わらないのかもしれないね
・・・って・・・ (戦前回帰の時代遅れな軍国主義思想の政治屋に票が入るわけだ。) 。



まあ、これが今回の佐村なんちゃらさんの会見で私が感じたことだ
(佐村なんちゃらさんの嘘の責任は追及されるだろうが、私には関係のないことだ。
ただ、佐村なんちゃらさんを責めることに躍起になっているメディアの人たちのセイで、
聴覚障害を持つ人や難聴者に対する風当たりが、更に強くなることには憤りを感じる。

つまり、自分では気づかない差別意識や差別的内容をそこかしこに噴出させることで、
全国にバカを生産し続けている、裁こうとしている人たちにもまたウンザリするのだ。
この、神山なんちゃらさんって人の責めている内容も言い方も、
私の耳の不自由さを無かったことにしよう・・・と、
躍起になって文句付けてくる人たちのそれと、全く同じなのだ。

すごくムカつく!。 こんな人がいるから、
『メンドクセーから、全く聞こえないって事にしておいた方が楽だろうな。』
・・と、感じるのだ。
こんな神山なんちゃらさんに佐村なんちゃらさんを責める資格など無いと思う。) 。


おっと忘れていた。佐村なんちゃらさんの立ち回りの下手さは気の毒に思うよ。
もし私だったら、何を言われても以前と変わらない長髪とグラサンで出て来て、
会見後に変身してひっそりとやり過ごすよ。

・・・しかし、髪を切ってグラサン外したら、
ただのオッサンだな。
私も髪を切ったら、ただのオッサンになるのかも・・・
やばいやばい・・・(笑)。

「もうオッサンだろ」 って、突っ込み、歓迎します (笑) 。

※※ 追記 ※※
オッサンはもう一人いる。
神山なんちゃらさんも無知で無神経な田舎のオッサンと同じだ。
あんたはジャーナリストじゃなくて、他人に文句をつけて得意顔になってる、
どこにでもいる田舎のオッサンだよ。

自分の謝罪をする会見なのに、若い人たちの言う所の “逆ギレ” とやらを
佐村なんちゃらさんがしてしまうのもよくわかる (「質問は以上で」 っての。) 。
聴力の事に対して、あんな無神経で無理解な事をクドクドと言われたら、
少しでも聴力に不自由をしている者なら怒っちゃうよ
(その前に “音のの障害” について説明してあるはずなのに、
「通訳終わっていない」 だの 「聞こえているというね」 だのって、
音の の障害” の話を、「ありえない話」 に捻じ曲げてる。
あの場面で笑うヤツらも皆、理解していないし、その発言も、それを笑うという行為も
音の質の障害を持つ者に対する侮辱であり差別行為だ!!!。

その差別行為を、全国的なメディアで堂々と流しちゃうんだもん。
そして、それを 『これは全国の音の質に障害がある難聴の方に対する侮辱行為ですよ』
・・とか言うコメンテーターがいないんだもん。
だから、私は 『テレビなんかカスだ』 ・・って、常々言ってるのだ。
こういう意見をメディアで言う人が1人も現れないなんて、
この国の民主主義ってまだまだなぁ~。麻生や安倍に票が入るわけだゼ。) 。
まっ、怒るのも無理はないよ。
私なら 『死ね、このレイシストのカス野郎!。』 とか言っちゃいそうだもんね。
私は立ち回りが上手いから、絶対に言わないけど (笑) 。








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2014.03/09 Sun 04:24|差別・人権・民主主義||トラックバック(0)TOP↑
▲子どもが一歳と1ヶ月になった現在、ほとんどハイハイをしなくなり、移動はもっぱら歩行である
(ものすごく不安定で、何度も転ぶのであるが、本人がそうしたいのであるから、怪我の心配などはあるが、気にしないようにして家の中を自由に歩かせている。
もちろん、かなりの衝撃だと思われる転び方も何回もしたし、顔は傷だらけであったり、頭部にかなりの大きさのコブ・・・と言うより、その膨らみの中身は血種であろう・・・が、長い間消えずにあったりする) 。


これだけ歩くようになれば、親心としては、外を歩かせてみたくなるのは当然だ。
カミサンも、 「公園に連れて行って歩かせたい」 と思ったらしい。
車で移動中に、突如 『そこの公園に寄って』 と私に言う。

私が子どもを抱っこひもで連れ出し、公園を歩く。
雪がチラつく寒い日なので、子どもの足には防寒用に靴を履かせてある。

こんな寒い日にもかかわらず、カミサンは、 『歩かせてみよう』 というのだ!。 

もちろん私は反対する。



あたりまえだ。 大人でさえ寒くて歩きたくない日に、まだ外を歩いたことがない不安な子どもを歩かせて、いい結果が出るはずがない。

手足や顔は寒風にさらされていても、体幹は抱っこで暖かい。それは、子どもの安心感として、 “心が温かい” こととして認識されているだろう。
それを、地に降ろすことで、全身が寒風にさらされることになる。それは、不安材料が増えると同時に、筋緊張を高め (寒さと心理面の両面から筋緊張が高まるだろう) 、運動機能にいいわけがない (もちろん、精神は不安でいっぱいになる) 。
そのことが、 “外での歩行” と関連付けられ、 『外での歩行の失敗』 の記憶として残るのは避けたい。


外を歩くことに対する心理的抵抗が構築されると、ますます外での歩行が遅れる。その結果、必要以上の苦労をするのは私のだ! (ただでさえ、持病の腰痛で、いつでも痛いし、脚の痛みと痺れ、部分的な麻痺があるのに、その軽減となるはずの “子どもの外での自力歩行” を遅らせるなんて・・・・・) 。

もちろん、本人にとっても、失敗の経験よりも成功の経験の方がいいに決まっている。
例え暖かい日に、本人が自ら歩きたくなるまで抱っこをし続けて、その後に地面を歩かせて、その結果不安で泣いてしまい失敗の経験を積んだとしても、それは仕方がないことだ。

『良い条件を保証すること』 が “発達の保証” であり、それは結果とは関係のない、管理者の責務であることは疑いのないことだ!

(昨今のスポーツにおける体罰の問題は、競技における良い結果を導く指導者としての仕事以前に、管理者に課せられる責務、つまりは、指導者が、選手の人としての基本的な権利たる “条件を保証する” 管理者としての責務を果たしていないのだ。 そこを全く考えずに 『我々の頃は・・・』 と、自身の “耐えられた体罰” の結果論と安易に比較し、体罰を容認しようとする年寄りどもには、呆れるばかりだ!。
そして、その体罰の問題に異を唱えることでパフォーマンスをする、 “元々は、条件を保証しないこと= 「体罰は必要だ」 と公言していたはずの政治屋たち” の豹変発言の軽薄さも、甚だ呆れる!。 何が維新だ! 聞いて呆れるぜ!。 何が先生だ! 元ヤンキーで周囲に迷惑をかけた賠償も反省もないくせに!)

(何も考慮できない人たちは、 「甘やかしだ!」 と、言うだろう。そういう “話の通じない” 人には、たくさん出会ってきた。 しかし、 “寒いから外に出さない” って言うのとは、全く違うのだ!。寒い風に顔をさらしているし、寒くても外出しているし・・・・。 そういうバカには 「説明しても解らない」 のではなくて、 「聞く耳を持たないから、話の内容を考慮してもらえない」 のだ!。前のカッコ内で書いた政治屋もしかりで、自らを高める努力を放棄して、人を攻撃する快感に酔いしれているだけだ!) 。



カミサンは、 『かわいいから、外を歩く姿を見たかった』 と言うのだが、親としての喜びに浮かれてそんな気持ちになるのは、私にも理解できる。
しかし、冷静になって考えるべきだ!。 親としての責務をだ。


カミサンの名誉のために書いておく。私にはもったいないくらいの、聡明で尊敬できる自慢のカミサンである。そして、カミサンはこういう “発達の権利に関する意識” は、私が施設職員時代に信頼していた同僚たちと同じくらいの高いレヴェルの人物である。
その人物が素人のようなことを言うから、私は驚いたのである。そして、その人物にこんな間違いをさせてしまうほど、親になる喜びと言うのは大きいものであることを改めて実感した次第だ。




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2014.03/03 Mon 00:00|子どもと共に歩む||TOP↑
プロフィール

DANGER MELON 

Author:DANGER MELON 
はみ出し者と言われ続けて30数年の某県△△市在住197?年生まれ自称39歳の専業主夫。

履歴:高校在学中に無認可障害者施設開所運動に関わり、高校卒業と同時に開所。以後数年間施設職員。それ以後は仕事も無くアルバイト+他で何とか食い繋ぐ。医療職を目指し齢31で進学、6年次に難癖付けられて退学。以後専業主夫。

思想:平和と民主主義を望む。足元はブーツのみ。セーターとポロシャツは着ない主義。

嫌いなモノ:差別、キノコ、弱い者イジメ。

好きなモノ:お肉、他多数。書ききれません。当ブログ内で少しづつ紹介していきます。

過去の日付の遅延投稿 ならびに 最新追記 については、カテゴリー【おしらせ】をお読み下さい。友人の皆さんへのメッセージもあります。リンクについての記述もございます。 


※限定公開記事のパスワードは、連絡が取れる方は本人にご確認下さい。

※文書および画像の無断転載、また日記的出来事のエピソードの流用を禁じます。それらを発見した時は、法的措置を取らせていただきます。

※但し、政治屋批判の画像に関しては、遠慮なくご自由にお使いください。断りも入れなくて結構です。

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