2021.01/11 Mon 01:27|未分類 (あれこれ)||TOP↑
トランプの支持者が集まって、連邦議会に突入したことに、
ビックリした人いるのかな?。
この ↓ 侵入したトランプの支持者、

腰にスタンガン付き警棒らしきものを差してる。それだけで異常者だと解る。
もうひとつ、コイツのブーツは出し縫いがされていないのもわかる。
何年かしたある日、突然底が剥がれるだろう。
ジーパンは、たぶん・・・・
・・・早速脱線したが、話を元に戻そう。
彼らは、人種排斥を唱えて、装甲車で、武装して威圧的にパレードして、
『トランプ支持』 を訴えていた連中だ。
これくらいのことやっても全然不思議じゃない。
日本でも、歴代の自民党の総理大臣の中では、中曽根と並ぶほどの
戦前美化のアベ (それに加えて、民族差別意識が極めて強い。) の
支持者が似たような人種差別発言したり、『朝鮮人韓国人を殺せ。』 とか
『韓国人の女は犯せ。』 とか言って、デモ行進してただろ
(何故、この行進が許可されて、かつ、警察に守られるのか、理解できない。) 。
こういう人たちの推すリーダーが、どんな思想を持っているか
・・・なんて、話を聞かなくてもわかる・・・って、モンだ。
アベだけでなく、跡を継いだスガもそうだが、反対意見を言ったら左遷したり、
『認めません。』 とか言う。
同様に、アベやスガの支持者は、反対したり、疑惑を追及したり、
意見を言う者に対して、『国民を分断する!』・・とか、レッテルを貼る。
それじゃ、会議も意見交換も・・必要ないじゃん!。
それは民主主義じゃないでしょ!。
中国政府が香港でやっていることと同じだろ。
特に、日本では、アベやスガの支持者ではなくても、
権力のやろうとしてる方向と違う方向を向くことを糾弾する、
頼まれもしないのに政治屋の手先になる、ZERRY 曰くの 『○○○○野郎』
も多いよね。
また、チーズの話でも触れたけど、
アメリカなんかの場合は特に多いが (日本にも結構いるけどね。) 、
自分の意見を論理的に説明して他人を納得させることができないから、
他人に有無を言わせない語彙を使うんだよね。
過去の専制政治を行った為政者が、逆らうものを排除する際や、
戦争に国民を駆り立てるために使った 『正論』 とか、『正義』 とか
・・・って言葉を使って、自身がカラッポなのを誤魔化すんだね
(アメリカの戦争の度に 「Justice」 を叫ぶ人がメディアで映されてる。
トランプ支持者も、言ってるのが報道されてた。) 。
こう言う人って、思考がスッポリと抜け落ちているんだよ。
なーんにも考えて無いし、考えられないんだろう・・・。
話を聞けばカラッポなのがわかるし、文章なら読めばわかる
(この手の人の話は聞く気が起きないし、文章は読む気が起きない。
だから、私は、この手の人はスルーしてる。) 。
・・・でも、それ以前に、見ればわかる。
↓ 南軍旗持ってる。 白人以外は認めない・・って言う、人種差別主義者だ。

どんな合わせ方するのも自由だけれど、
ぺインターパンツにパーカーを合わせるのはイイとしても、
パーカーの上にベストってのは、私にとってはいただけないね。
不思議なのは、
日本のアベやスガ (または、実質彼らの補完勢力である維新・・)
を応援する人たちって、トランプを大々的に応援しようとすることだ。
この旗持ってるトランプ支持者の前に出ると、私のような黄色人種は、
思いっきり差別されるんだよ。
場合によっては、殺されるかもしれない。
日本でも1000人でデモ行進したらしい。
それなのに、何で、こんなにトランプを持ち上げるのかね?。
百田さんを始めとする有名人も、その他のネットで騒いでいる人たちも、
見てわかんないのかね?。
それとも、自分が白人の特別枠に入れてもらえると思ってんのかね?。





2021.01/10 Sun 06:00|差別・人権・民主主義||TOP↑
2015年5月23日の投稿 【ツイてる】 で紹介した
Big Smith のオーバーオールなのだが、実はまだ他にも持っている。
前述した投稿で紹介した紹介した
90年代前期モノ サイズ 4T (ヒッコリーストライプ) は、
手に入れたすぐ後 (ほんの2週間後) に、同じサイズのブルーも入手したし、
更に半年後に、ブルーの 70年代モノ W32 もデットストックで手に入れた。
・・・しかし、今回紹介するのは、それ以前に手に入れた USED だ。
サイズは、12M (12カ月) 。

流石にこのサイズでは、ツールポケットもハンマーループも省略されてる。
Big Smith の特徴的なビブポケットも、よくある他メーカーのような
デザインのモノになってる (スナップボタンなし。) 。
特徴的なのは、GRIPPER のスナップボタンによって、
フルオープンにできることだ。

しかし、流石に この時期は、完全に歩行している訳ではないし、
ボタンやストラップの金具が、子どもの身体に邪魔だと思い、
履かせることはなかった (アメリカの人は、いつから履かせてるのかな。) 。
サイズ 4T との、大きさの比較。

W32 との、大きさの比較。

12M・4T・W32 の比較。

目がチカチカしますね・・・。
これなら見やすいかな?。
12M・4T (ブルー) ・W32 の比較。

オーバーオールは、基本的にレングスは短く、股上が長くとられている。
股上で比較してください。
今は、ウチの子どもが履けるサイズのオーバーオールは、持ってない。
もう子どもは履きたがるとは思えないが、
次のサイズは W26 の Osh Kosh B'gosh のビンテージを持っている。
高学年になったら履けるかな?。
でも、もうオーバーオールは、履いてくれないだろうな・・・。
それでもいい。アメリカンワークウェアを押し付ける気はない。
ただ、流行の服を買って、
短期間で使い捨てをするような人間にさえならなければいい。
物を大切にできないから、人を大切にできないのか、
人を大切にできないから、物も大切にできないのか、
・・・どちらが前提条件なのかは、わからない。
だが、これだけは言える。
人を大切にするということは、未来の人間のことまで考えて、
行動することだ。
それは、自分の目先の金のことばかり考えてる人間では いけない
・・・と、いうことだと思う。
※※ 追記 ※※
・・・とは言え、私のようなコレクションもどうかとは思いますが・・・。
アメリカ製の子ども服は、今後どうするかは、決めておりません。
困ったオッサンです・・・。
買い物は、よくよく考えてしましょう。




Big Smith のオーバーオールなのだが、実はまだ他にも持っている。
前述した投稿で紹介した紹介した
90年代前期モノ サイズ 4T (ヒッコリーストライプ) は、
手に入れたすぐ後 (ほんの2週間後) に、同じサイズのブルーも入手したし、
更に半年後に、ブルーの 70年代モノ W32 もデットストックで手に入れた。
・・・しかし、今回紹介するのは、それ以前に手に入れた USED だ。
サイズは、12M (12カ月) 。

流石にこのサイズでは、ツールポケットもハンマーループも省略されてる。
Big Smith の特徴的なビブポケットも、よくある他メーカーのような
デザインのモノになってる (スナップボタンなし。) 。
特徴的なのは、GRIPPER のスナップボタンによって、
フルオープンにできることだ。

しかし、流石に この時期は、完全に歩行している訳ではないし、
ボタンやストラップの金具が、子どもの身体に邪魔だと思い、
履かせることはなかった (アメリカの人は、いつから履かせてるのかな。) 。
サイズ 4T との、大きさの比較。

W32 との、大きさの比較。

12M・4T・W32 の比較。

目がチカチカしますね・・・。
これなら見やすいかな?。
12M・4T (ブルー) ・W32 の比較。

オーバーオールは、基本的にレングスは短く、股上が長くとられている。
股上で比較してください。
今は、ウチの子どもが履けるサイズのオーバーオールは、持ってない。
もう子どもは履きたがるとは思えないが、
次のサイズは W26 の Osh Kosh B'gosh のビンテージを持っている。
高学年になったら履けるかな?。
でも、もうオーバーオールは、履いてくれないだろうな・・・。
それでもいい。アメリカンワークウェアを押し付ける気はない。
ただ、流行の服を買って、
短期間で使い捨てをするような人間にさえならなければいい。
物を大切にできないから、人を大切にできないのか、
人を大切にできないから、物も大切にできないのか、
・・・どちらが前提条件なのかは、わからない。
だが、これだけは言える。
人を大切にするということは、未来の人間のことまで考えて、
行動することだ。
それは、自分の目先の金のことばかり考えてる人間では いけない
・・・と、いうことだと思う。
※※ 追記 ※※
・・・とは言え、私のようなコレクションもどうかとは思いますが・・・。
アメリカ製の子ども服は、今後どうするかは、決めておりません。
困ったオッサンです・・・。
買い物は、よくよく考えてしましょう。





人日の節句、1月7日の朝は、七草粥を食べる。
「お正月のご馳走で疲れた胃を休める為」 などと言われているが、
昔の日本人の多くが、本当にお正月の御馳走を、
何日もの間食べることができたかは、大いに疑問だ。
カミサンのばあちゃんが言ってた。
『昔は、正月に餅を食べるのだけが楽しみで、それを思って、
1年間我慢してた。その餅も、1個か2個だけ。
普段の食事は、米も満足に食べられんかった。』
・・・って。
七草粥は、今ではすっかり日本の文化的行事食なのであるが、
昨今の政治屋は、
口では 『責任』 と言って、でも首相を辞めなかったし、
今も秘書のせいにして議員を辞めない アベ を筆頭として、
《文化を言い訳にして、好戦的愛国心を高め、
庶民の生活を圧迫する政治から眼をそらさせようとする人》
・・・が多くなった。
『わが国の文化を大切に』 みたいな聞こえのいい事を言い訳にして、
“美しい国” とやらを推進したい アベ が長期政権を持続させられたのも、
こんな宣伝に庶民がまんまと騙されたからでもある。
だが、実際には、『文化を・・』 ってのが、見せかけだけの看板で、
実質は男尊女卑の戦前の教育を絶賛していたりして、
《 “負” の 文化》 を復活させたり、推進させたいのは、
著書や発言の端々からよくわかる
それどころか、昔の庶民に押し付けられていた
『権利の侵害』 や、『義務の強制』、
また、戦争や植民地支配で犯した間違いはもちろん、
先に書いたような、『大多数の国民の貧困』 さえも、
無かったかのように覆い隠す始末だ。
アベと、アベの肝いりで政治屋になったナンチャラスイミャク、
稲田のともちゃんなどはもちろん、そういうことを口を濁しながら
言うので、《 “負” の 時代》 を復活させたいのがよくわかる
(頼むから、アベと共に政界から消えてくれ!。) 。
しかし、維新の会の政治屋や、
まだ生きているらしいポルノ小説屋のジイサンのように、
言い訳も何もなく、好戦的な愛国心と他民族差別を公言する者までいる。
いずれにしろ、こういう奴らが代表者に選ばれるなんて、世も末だ・・。
まあ、とにかく、七草の説明も選別もできない
(・・であろうと容易に推測できる) 文化オンチが、文化について語るのは、
ナンセンス以外の何物でもなく、全くもっていただけない!。
彼ら、『日本以外は認めない。』
『ましてや、中国や韓国は、なお一層認めない。』 ・・ってな政治屋には
耳は痛いであろうが、七草の風習は、中国が起源なんだよね。
【1月7日 人日に、七種菜羹を食し、無病を祈願する。】
・・というのが、元々なんだよね。
それが、日本に伝わって、若菜摘みと混ざり合ったのだそうだ
( “若菜摘み” は、光孝天皇の
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」
で、有名なそれ。)。
文化も歴史もろくすっぽ語れないし学べない 文化オンチの政治屋や、
他国の文化を卑下する差別主義者は、七草粥は食べなくてもいいよ!。
・・・ってな訳で (どういう訳だよ、オッサン!。話長げーよ!) 、七草粥である。
何を隠そう (なんじゃそりゃ?。) 、私は、七草粥が大好きなのだ
(・・って、ご飯なら、何でも好きなんだろ!。) 。

但し、ドロドロにふやけたのは嫌なのだ!!!。
・・・ってな訳で、
ご飯にはあんまり火を通さないのが、ウチの七草粥なのだ。
なので、いつもは炊いたご飯に水を足して、ちょっと火にかけるだけ
(厳密にいえば、この時点で粥ではない。) 。
しかし、今日のは、水煮した七草をご飯の上から、煮汁ごと かけただけ。
『それって、粥じゃなくて湯漬けじゃない?。』 (笑)
ほんの少~し の塩をかけて、食べる。
いい香り!。 大好き!!。




「お正月のご馳走で疲れた胃を休める為」 などと言われているが、
昔の日本人の多くが、本当にお正月の御馳走を、
何日もの間食べることができたかは、大いに疑問だ。
カミサンのばあちゃんが言ってた。
『昔は、正月に餅を食べるのだけが楽しみで、それを思って、
1年間我慢してた。その餅も、1個か2個だけ。
普段の食事は、米も満足に食べられんかった。』
・・・って。
七草粥は、今ではすっかり日本の文化的行事食なのであるが、
昨今の政治屋は、
口では 『責任』 と言って、でも首相を辞めなかったし、
今も秘書のせいにして議員を辞めない アベ を筆頭として、
《文化を言い訳にして、好戦的愛国心を高め、
庶民の生活を圧迫する政治から眼をそらさせようとする人》
・・・が多くなった。
『わが国の文化を大切に』 みたいな聞こえのいい事を言い訳にして、
“美しい国” とやらを推進したい アベ が長期政権を持続させられたのも、
こんな宣伝に庶民がまんまと騙されたからでもある。
だが、実際には、『文化を・・』 ってのが、見せかけだけの看板で、
実質は男尊女卑の戦前の教育を絶賛していたりして、
《 “負” の 文化》 を復活させたり、推進させたいのは、
著書や発言の端々からよくわかる
それどころか、昔の庶民に押し付けられていた
『権利の侵害』 や、『義務の強制』、
また、戦争や植民地支配で犯した間違いはもちろん、
先に書いたような、『大多数の国民の貧困』 さえも、
無かったかのように覆い隠す始末だ。
アベと、アベの肝いりで政治屋になったナンチャラスイミャク、
稲田のともちゃんなどはもちろん、そういうことを口を濁しながら
言うので、《 “負” の 時代》 を復活させたいのがよくわかる
(頼むから、アベと共に政界から消えてくれ!。) 。
しかし、維新の会の政治屋や、
まだ生きているらしいポルノ小説屋のジイサンのように、
言い訳も何もなく、好戦的な愛国心と他民族差別を公言する者までいる。
いずれにしろ、こういう奴らが代表者に選ばれるなんて、世も末だ・・。
まあ、とにかく、七草の説明も選別もできない
(・・であろうと容易に推測できる) 文化オンチが、文化について語るのは、
ナンセンス以外の何物でもなく、全くもっていただけない!。
彼ら、『日本以外は認めない。』
『ましてや、中国や韓国は、なお一層認めない。』 ・・ってな政治屋には
耳は痛いであろうが、七草の風習は、中国が起源なんだよね。
【1月7日 人日に、七種菜羹を食し、無病を祈願する。】
・・というのが、元々なんだよね。
それが、日本に伝わって、若菜摘みと混ざり合ったのだそうだ
( “若菜摘み” は、光孝天皇の
「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」
で、有名なそれ。)。
文化も歴史もろくすっぽ語れないし学べない 文化オンチの政治屋や、
他国の文化を卑下する差別主義者は、七草粥は食べなくてもいいよ!。
・・・ってな訳で (どういう訳だよ、オッサン!。話長げーよ!) 、七草粥である。
何を隠そう (なんじゃそりゃ?。) 、私は、七草粥が大好きなのだ
(・・って、ご飯なら、何でも好きなんだろ!。) 。

但し、ドロドロにふやけたのは嫌なのだ!!!。
・・・ってな訳で、
ご飯にはあんまり火を通さないのが、ウチの七草粥なのだ。
なので、いつもは炊いたご飯に水を足して、ちょっと火にかけるだけ
(厳密にいえば、この時点で粥ではない。) 。
しかし、今日のは、水煮した七草をご飯の上から、煮汁ごと かけただけ。
『それって、粥じゃなくて湯漬けじゃない?。』 (笑)
ほんの少~し の塩をかけて、食べる。
いい香り!。 大好き!!。





※※本稿は、1月1日未明に書きました。※※
『昨年は、なんだか忙しい一年で、何にもやりたいこともできずに、
「あっ」・・と、言う間に過ぎてしまった気がします。今年は・・・・』
・・とか、ブログで書く気は無いです。
・・かと言って、書いている人を批判する気もありません。
ただ、正月だろうと盆だろうと、所詮は誰かが決めたことで、
人間の営みにとっては、何かしらの変化はあるかもしれませんが、
『生活』 と言う視点で見ると、どんな時も同じ営みの連続であることは、
明白です。
生活の、特に家事に関して言えば、毎日の連続の洗濯や掃除、
料理の準備や後片づけなど、ただただ 終わりのない日常の務めを、
粛々とこなしていくことが、生活そのものなのだと思います。
初詣も行かないし、神にも祈らない。
宗教を利用したり、神の名を利用して、人類は戦争と殺戮を繰り返してきた。
それは、この国だけではなく、世界中で・・・だ。
だから宗教など信じていない。
特に神道は、戦争を為政者との間で互いに利用し合ったにもかかわらず、
現在においてもなお、その事実への真摯な態度は見られない。
だからこそ、私はその存在を肯定するかのように、金を落とさない
(おみくじは面白いから引くこともあるけど、寺で引くことにしている。
凶ばかり出るから、飽きてしまって最近では引かない。爆笑) 。

無宗教であること・・とか、縁起を担いでも災難ばかりであった経験、
・・・などが、私を “世間の風習にとらわれない人間” につくり上げた
のでしょうが、特に、この年末年始の風習については、
自分の生き方とのギャップを大きく感じるのです。
・・・ただし、縁起担ぎのかたまりである おせち は、食べます。
その理由は、好きだから・・・好きな物ばかりを作るから (笑) 。
私が、ギャップを感じることの1つは、
【期間を区切ることで、何らかの理由を付けること】 です。
つまり、『今年こそは、・・・』 とか、言うのがどうにも腑に落ちないのです。
そもそも、自分を変えられるのは、自分だけであって、言い訳のような
タイミングを定めても、行動を起こすことに繋がるとは思えないのです。
所詮は、やらない者はやらない者のままであるし、偽善者は偽善者のまま、
悪徳政治屋は悪徳政治屋のまま・・な訳です。
それ以前に、『来年こそは、』 とか言う前に、
そう思った “今” 、さっそく取り掛かることが必要だと思うのです。
余談になりますが‥‥、
よって、ブログで新年のご挨拶をする・・とかも、考えていません。
・・が、別に、ブログであいさつをする人を批判するつもりもありません。
ただ、極めて個人的な思いの羅列であるブログに、
その様な堅っ苦しい社交辞令は、私にとっては不要なのです。
私のブログを読んで下さっている数名の方には、感謝はしておりますが・・・。
・・・と、ここまで読むと、
私と言う人間は、全く世間に逆らって生きているようでもありますが、
実生活では、季節の挨拶や風習に応じた社交辞令くらいは、
社会生活を円滑にするためにも必要であり、
私だって、実際の生活においては、そのくらいは一応、しています
(挨拶とか、年賀状とか・・・。) 。
・・・話を元に戻します。
ここ10年位を振り返ってみると、自分が 『やる。』 と、決めたことを
全くやっていない (主にモノ作りと、将来への継続的な行動のことです。
ただし、完成していないだけで、作業自体は少しづつ進んでいる。) 。
しかし、何らかの理由があって、進まない時期はある。
ガッコをクビになってからのうつの期間がそうだったのだが、
その後の 「いま」 は、生活に追われて、遅々として進んでいない時期だ
(多少の心の不調も、ない訳ではないし、他の理由もあるが・・・。) 。
過去に、共に夢を見た友人は、とっくに私を見放したようだ。
私が何の成果もあげていないからこそ、年末年始にかこつけて、
何人かの友人から、お叱りの電話が来るのだと思う。
それでも、去年も一昨年も、私は少しづつ少しづつ、
私のやるべきことを進めてきた。
自分自身を甘やかしているつもりはないが、
安泰な生活を手に入れた人から見ると、
【成功していない人=努力していない人】 ・・と、
決めつけておいた方が心が楽なのだろう。
他人のことばかりが気になっているにもかかわらず、
一番身近な自分は、歳を重ねるにしたがって、
だんだんと自らを甘やかして、日和ってしまったことには、
気づかないのか or 見ぬようにしているのか・・・は、
私には解らないけれど・・・。
他人に何を言われようと、共に夢見ることから見捨てられようと、
友人が何人去って行こうとも、
私はただ、今できることを、粛々とこなしていくだけ。
たとえ、志半ばで命が尽きようと、それはそれ。
仕方ないことだ・・・と、思っている。

『昨年は、なんだか忙しい一年で、何にもやりたいこともできずに、
「あっ」・・と、言う間に過ぎてしまった気がします。今年は・・・・』
・・とか、ブログで書く気は無いです。
・・かと言って、書いている人を批判する気もありません。
ただ、正月だろうと盆だろうと、所詮は誰かが決めたことで、
人間の営みにとっては、何かしらの変化はあるかもしれませんが、
『生活』 と言う視点で見ると、どんな時も同じ営みの連続であることは、
明白です。
生活の、特に家事に関して言えば、毎日の連続の洗濯や掃除、
料理の準備や後片づけなど、ただただ 終わりのない日常の務めを、
粛々とこなしていくことが、生活そのものなのだと思います。
初詣も行かないし、神にも祈らない。
宗教を利用したり、神の名を利用して、人類は戦争と殺戮を繰り返してきた。
それは、この国だけではなく、世界中で・・・だ。
だから宗教など信じていない。
特に神道は、戦争を為政者との間で互いに利用し合ったにもかかわらず、
現在においてもなお、その事実への真摯な態度は見られない。
だからこそ、私はその存在を肯定するかのように、金を落とさない
(おみくじは面白いから引くこともあるけど、寺で引くことにしている。
凶ばかり出るから、飽きてしまって最近では引かない。爆笑) 。

無宗教であること・・とか、縁起を担いでも災難ばかりであった経験、
・・・などが、私を “世間の風習にとらわれない人間” につくり上げた
のでしょうが、特に、この年末年始の風習については、
自分の生き方とのギャップを大きく感じるのです。
・・・ただし、縁起担ぎのかたまりである おせち は、食べます。
その理由は、好きだから・・・好きな物ばかりを作るから (笑) 。
私が、ギャップを感じることの1つは、
【期間を区切ることで、何らかの理由を付けること】 です。
つまり、『今年こそは、・・・』 とか、言うのがどうにも腑に落ちないのです。
そもそも、自分を変えられるのは、自分だけであって、言い訳のような
タイミングを定めても、行動を起こすことに繋がるとは思えないのです。
所詮は、やらない者はやらない者のままであるし、偽善者は偽善者のまま、
悪徳政治屋は悪徳政治屋のまま・・な訳です。
それ以前に、『来年こそは、』 とか言う前に、
そう思った “今” 、さっそく取り掛かることが必要だと思うのです。
余談になりますが‥‥、
よって、ブログで新年のご挨拶をする・・とかも、考えていません。
・・が、別に、ブログであいさつをする人を批判するつもりもありません。
ただ、極めて個人的な思いの羅列であるブログに、
その様な堅っ苦しい社交辞令は、私にとっては不要なのです。
私のブログを読んで下さっている数名の方には、感謝はしておりますが・・・。
・・・と、ここまで読むと、
私と言う人間は、全く世間に逆らって生きているようでもありますが、
実生活では、季節の挨拶や風習に応じた社交辞令くらいは、
社会生活を円滑にするためにも必要であり、
私だって、実際の生活においては、そのくらいは一応、しています
(挨拶とか、年賀状とか・・・。) 。
・・・話を元に戻します。
ここ10年位を振り返ってみると、自分が 『やる。』 と、決めたことを
全くやっていない (主にモノ作りと、将来への継続的な行動のことです。
ただし、完成していないだけで、作業自体は少しづつ進んでいる。) 。
しかし、何らかの理由があって、進まない時期はある。
ガッコをクビになってからのうつの期間がそうだったのだが、
その後の 「いま」 は、生活に追われて、遅々として進んでいない時期だ
(多少の心の不調も、ない訳ではないし、他の理由もあるが・・・。) 。
過去に、共に夢を見た友人は、とっくに私を見放したようだ。
私が何の成果もあげていないからこそ、年末年始にかこつけて、
何人かの友人から、お叱りの電話が来るのだと思う。
それでも、去年も一昨年も、私は少しづつ少しづつ、
私のやるべきことを進めてきた。
自分自身を甘やかしているつもりはないが、
安泰な生活を手に入れた人から見ると、
【成功していない人=努力していない人】 ・・と、
決めつけておいた方が心が楽なのだろう。
他人のことばかりが気になっているにもかかわらず、
一番身近な自分は、歳を重ねるにしたがって、
だんだんと自らを甘やかして、日和ってしまったことには、
気づかないのか or 見ぬようにしているのか・・・は、
私には解らないけれど・・・。
他人に何を言われようと、共に夢見ることから見捨てられようと、
友人が何人去って行こうとも、
私はただ、今できることを、粛々とこなしていくだけ。
たとえ、志半ばで命が尽きようと、それはそれ。
仕方ないことだ・・・と、思っている。