時々、覗かせてもらっているブログで紹介されていた、7月から気になっている記事。
【 「コミュ力重視」の若者世代と「野党ぎらい」についての論考 (メモ)】 : 村野瀬玲奈の秘書課広報室
(ブログを勝手にリンクさせて頂いてすみません。【リンクについて】をお読みいただき、お嫌でしたら、おっしゃってください。)
話題としているのは、
野口雅弘 成蹊大学教授 の書いた、現代ビジネスとかっていう雑誌?の記事、
【 「コミュ力重視」 の若者世代はこうして 「野党ぎらい」 になっていく
「批判」 や 「対立」 への強い不快感】
・・・ に関してだ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=2
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=3
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=4
私は、 「社会学、面白そうだな。」 ・・と常々思っているだけで、かじったことすらないので、難しい話にはついて行けないのであるが、
野口教授が、全体で言わんとしていることについて、
『なるほどなぁ~。』 ・・・と、
感心しつつ読ませていただいた。
しかし、いろいろと引っかかることだらけであった。(以下、本稿を含め3稿で述べる。)
◆まず最初のところ。
『学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の 「空気」 をうまく読み、それを継続する 「コミュ力」 がその分だけ評価されるのも当然ではある。』
・・・だそうだ。
でもよぉ~、 『コンプライアンスの順守』 とやらが、叫ばれる世の中で、誰も批判しないから、法に触れることになったりしちゃうんじゃないの?。
モリカケの問題も、仮にアベ自民党が主張している様に、政治家が全く関与していない・・・ソンタクとやら100%であれば、原因はその空気とやらを読んで継続したからに他ならないんじゃないか?! (今回の話としては余談だが、もしそうだとすれば、官僚の役割は意味が無くなるよ・・。もちろん、議論の場としての議会もね・・・。さらに言えば、政府が官僚を制御できていないことが証明されたって事にもなる。)
(ついでにもう一つ。関係者の答弁を見てると、嘘がバレバレで、アベを始めとする自民党の政治屋が絡んでないはずはないけどな。 仮に絡んでなかったとしても、責任は取るのがスジってモンだしよぉ。) 。
だいたいさぁ~、
そもそも、 『コミュ力』 ・・って、何だよ?。
若者の中で、使われてるのか?。それとも、テレビで使われてんのか?。
私の周りの人間で、聞いた事が無い言葉だ。
『コミュニケーション能力』 ・・って書いてあるな。
『コミュニケーションの能力』 ・・って事か?。・・・だとすれば、
この最初の部分の論理に従えば、
『 “当たり障りないフレンドリーな関係を作ること” = コミュニケーション』 ・・とか、
『 “空気とやらを継続すること” = コミュニケーション』 ・・と言うことになる。
それならば、下の下のハシゲが言うような (子ども向けの著書 「どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術)」 にも書いている。) 、 『生き延びるために、いじめに加担しろ』 ・・の基本的スタンスである、 【長いものには巻かれろ】 & 【弱い者はイジメろ】 っていうのも、コミュニケーションの能力・・・ってことになる。
だとすれば、“コミュニケーション ” の意味を間違えていると思うゼ。
そして、世間では (少なくともネット上のそれらしいことをエラそうに語るページや、頭の悪そうな政治屋やその取り巻きのコメンテーターなど) 、こんな認識が 「コミュニケーションである」 とされている・・・ようなことをよく見聞きする。
しかし、そんな認識で、本当の意味でのコミュニケーションができるのか?!。
『ナチュラルに感じよく』 会話・・・・って事も違和感がある。これが、コミュニケーションの能力の片鱗であることはわかるが、少なくとも、コミュニケーションの目的である “意見が伝わる” ことにおいて、大きな割合を占めるモノではないと思う。
◆2ページ目に関しては、ココでは触れないでおく
(毎度のことであるが、この言葉を使うことが差別であると言うことに気が付かない人が多い。そんな認識でコミュニケーションとか、コミュニケーションの能力を語るな!。コミュニケーションの能力って、単語の持つ差別的意味を理解して適切に使用することも、大切な能力であるハズだ。) 。
次回は、このことについて書こうと思ってるので、今回はパス。
◆3ページ目の 【 「こだわり」 や 「情念」 は忌避される】 について。
私のような無学な者が、述べるのもナンだとは思うが、
私には、このことが 今の社会そのもの のように感じる。
それ以降の論考も、野口さんが感じたのと似たようなモノを、私も感じている。
( “感じの良さ” を引き合いに出されると、野党が不利・・ってのは、もっともだと思うし、そういうふうにアベの周囲 (本人ではなく) は上手いこと振舞っている・・と思う。 アクティブ・ラーニングに対する野口教授の意見や、感想も、それと同じようなスタンスで政党政治を捉える風潮への危機感も理解できる。)
私は、専業主夫であるので、それほど人の中に出て行ってはいないのであるが、例えばオヤジ共の飲み会の中で、真面目な話になった時、オヤジ共の8割くらいは話さないし意見の表明も質問もしない。
それどころか、
『聞いているようにも、聞いていないようにも取れる態度』
を取っているのだ。
しかし、これに関して、私には、
彼らの行動は、野口教諭の言うような
「こだわり」 や 「情念」 を忌避しているのではなくて、
「思考」
と、
その結果生まれる 「現実に対するマイナス感情」
を、忌避しているように見える。
・・そして、その事が、投票率の低下に繋がっていると思うのだ。
その結果、思考を拒否する以前の思考できない人たちの投票率は上がり、
曲がりなりにも投票に行く人も、マイナス感情を拒否するように振る舞い、自分の首を絞める投票先に投票しているように思う。
そして、こういう 【 “思考すること” を忌避している】 人たちこそが、
野口教授 の書いた最初の部分・・・・・・↓
『学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の 「空気」 をうまく読み、それを継続する 「コミュ力」 がその分だけ評価されるのも当然ではある。』
・・・・・↑これを、妄信しているのだと思う。
(これを 『 “当然” だ』 ・・・と、言ってしまう教授自身も・・かな。 まあ、私のように社会的な しがらみ が極々少ない生活では無いし、ガッコなどと言う “名誉欲に駆られた阿呆が平均値以上に居そうなメンドクサイ空間 (経験による私見です。苦笑) ” に身を置く以上は、少しはこう思ってしまっても仕方がないとは思うが・・・・。)
(しかし、この 「コミュ力」 とやら・・って言葉が、よく聞く 「空気とやら」 のように、本当によく使われているのだとしても、学者がこんな間違った使い方を 『肯定してはイカン』 と思うのだ。次回の 【2】 でも、違う言葉について、同様のことを述べさせていただくが、こういう事の積み重ねは、議論の本質を捉えにくくしてしまう・・と思う。)
・・で、今回の投稿における私の言いたいことをまとめさせていただくと、
以下のようになる。
野口教授の言う、
『ナチュラルに感じよく会話ができること や、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作ること、その場の「空気」とやらをうまく読み、継続すること。』
= (イコール) コミュニケーション能力
・・・であるという前提ならば、
【自己の意見を、 言う or 言わない 】 は、
コミュニケーションの能力とは相関性がある。
しかし、
それって、コミュニケーションの能力ではなく、
『全体主義への迎合能力』
じゃないんですか?。
次回に続く
※※注1※※
私には、学が無い (ガッコは辞めさせられてるし、分野も違う) ので、社会学についての専門的な事はわかりません。野口教授の論考に関して、唯々 「なるほどなぁー」 ・・と、感じている次第です。
結局は、私が言いたい事は、 『おかしな言葉を使うべきでない』 と言うことだ。
しかし、ウチのカミサンは、野口さんの論考に、 「こんなの、今に始まったことじゃない。」 ・・と、言っていた。それについては、この投稿の続きの 【コミュニケーションについてそれらしいこと言う人たちのコミュニケーションの能力ってどうなんですかね? 2】 で触れます。
※※注2※※
この投稿を、当ブログ内のカテゴリーの 【差別・人権】 に分類したのは、この野口教授並びに、この記事に反応してそれらしいことを言っている人たちが、 (意識はしていないのであろうが) コミュニケーション障害について差別をしていると感じたからである。
このことに触れる人間がいないのは、民主主義としては問題だと思ったので、その事に関して、この投稿の続きの 【コミュニケーションについてそれらしいこと言う人たちのコミュニケーションの能力ってどうなんですかね? 2】 で述べます。
※※注3※※
『空気とやら』 ・・と書かせていただいていることについて。
もはや一般化してしまったかのような 『場の空気を読む』 とかいう言葉だが、民主主義に反する全体主義的な、意見の封殺を実行する言葉だと考えています。そのため、私はその “偽日本語” を一切使用しておりませんし、その言葉を引用する際は、実生活の会話内であっても 『その、空気とやら・・だけどよぉ・・』 ・・と言っております。
私は、体制の手先に成り下がるような言葉は使わないのです。
↓楽天の馬鹿げた商業主義の手先には成り下がっておりますが・・・。

↑このアフィリエイトとやらで、稼げたためしがない! (笑) 。


【 「コミュ力重視」の若者世代と「野党ぎらい」についての論考 (メモ)】 : 村野瀬玲奈の秘書課広報室
(ブログを勝手にリンクさせて頂いてすみません。【リンクについて】をお読みいただき、お嫌でしたら、おっしゃってください。)
話題としているのは、
野口雅弘 成蹊大学教授 の書いた、現代ビジネスとかっていう雑誌?の記事、
【 「コミュ力重視」 の若者世代はこうして 「野党ぎらい」 になっていく
「批判」 や 「対立」 への強い不快感】
・・・ に関してだ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=2
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=3
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56509?page=4
私は、 「社会学、面白そうだな。」 ・・と常々思っているだけで、かじったことすらないので、難しい話にはついて行けないのであるが、
野口教授が、全体で言わんとしていることについて、
『なるほどなぁ~。』 ・・・と、
感心しつつ読ませていただいた。
しかし、いろいろと引っかかることだらけであった。(以下、本稿を含め3稿で述べる。)
◆まず最初のところ。
『学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の 「空気」 をうまく読み、それを継続する 「コミュ力」 がその分だけ評価されるのも当然ではある。』
・・・だそうだ。
でもよぉ~、 『コンプライアンスの順守』 とやらが、叫ばれる世の中で、誰も批判しないから、法に触れることになったりしちゃうんじゃないの?。
モリカケの問題も、仮にアベ自民党が主張している様に、政治家が全く関与していない・・・ソンタクとやら100%であれば、原因はその空気とやらを読んで継続したからに他ならないんじゃないか?! (今回の話としては余談だが、もしそうだとすれば、官僚の役割は意味が無くなるよ・・。もちろん、議論の場としての議会もね・・・。さらに言えば、政府が官僚を制御できていないことが証明されたって事にもなる。)
(ついでにもう一つ。関係者の答弁を見てると、嘘がバレバレで、アベを始めとする自民党の政治屋が絡んでないはずはないけどな。 仮に絡んでなかったとしても、責任は取るのがスジってモンだしよぉ。) 。
だいたいさぁ~、
そもそも、 『コミュ力』 ・・って、何だよ?。
若者の中で、使われてるのか?。それとも、テレビで使われてんのか?。
私の周りの人間で、聞いた事が無い言葉だ。
『コミュニケーション能力』 ・・って書いてあるな。
『コミュニケーションの能力』 ・・って事か?。・・・だとすれば、
この最初の部分の論理に従えば、
『 “当たり障りないフレンドリーな関係を作ること” = コミュニケーション』 ・・とか、
『 “空気とやらを継続すること” = コミュニケーション』 ・・と言うことになる。
それならば、下の下のハシゲが言うような (子ども向けの著書 「どうして君は友だちがいないのか (14歳の世渡り術)」 にも書いている。) 、 『生き延びるために、いじめに加担しろ』 ・・の基本的スタンスである、 【長いものには巻かれろ】 & 【弱い者はイジメろ】 っていうのも、コミュニケーションの能力・・・ってことになる。
だとすれば、“コミュニケーション ” の意味を間違えていると思うゼ。
そして、世間では (少なくともネット上のそれらしいことをエラそうに語るページや、頭の悪そうな政治屋やその取り巻きのコメンテーターなど) 、こんな認識が 「コミュニケーションである」 とされている・・・ようなことをよく見聞きする。
しかし、そんな認識で、本当の意味でのコミュニケーションができるのか?!。
『ナチュラルに感じよく』 会話・・・・って事も違和感がある。これが、コミュニケーションの能力の片鱗であることはわかるが、少なくとも、コミュニケーションの目的である “意見が伝わる” ことにおいて、大きな割合を占めるモノではないと思う。
◆2ページ目に関しては、ココでは触れないでおく
(毎度のことであるが、この言葉を使うことが差別であると言うことに気が付かない人が多い。そんな認識でコミュニケーションとか、コミュニケーションの能力を語るな!。コミュニケーションの能力って、単語の持つ差別的意味を理解して適切に使用することも、大切な能力であるハズだ。) 。
次回は、このことについて書こうと思ってるので、今回はパス。
◆3ページ目の 【 「こだわり」 や 「情念」 は忌避される】 について。
私のような無学な者が、述べるのもナンだとは思うが、
私には、このことが 今の社会そのもの のように感じる。
それ以降の論考も、野口さんが感じたのと似たようなモノを、私も感じている。
( “感じの良さ” を引き合いに出されると、野党が不利・・ってのは、もっともだと思うし、そういうふうにアベの周囲 (本人ではなく) は上手いこと振舞っている・・と思う。 アクティブ・ラーニングに対する野口教授の意見や、感想も、それと同じようなスタンスで政党政治を捉える風潮への危機感も理解できる。)
私は、専業主夫であるので、それほど人の中に出て行ってはいないのであるが、例えばオヤジ共の飲み会の中で、真面目な話になった時、オヤジ共の8割くらいは話さないし意見の表明も質問もしない。
それどころか、
『聞いているようにも、聞いていないようにも取れる態度』
を取っているのだ。
しかし、これに関して、私には、
彼らの行動は、野口教諭の言うような
「こだわり」 や 「情念」 を忌避しているのではなくて、
「思考」
と、
その結果生まれる 「現実に対するマイナス感情」
を、忌避しているように見える。
・・そして、その事が、投票率の低下に繋がっていると思うのだ。
その結果、思考を拒否する以前の思考できない人たちの投票率は上がり、
曲がりなりにも投票に行く人も、マイナス感情を拒否するように振る舞い、自分の首を絞める投票先に投票しているように思う。
そして、こういう 【 “思考すること” を忌避している】 人たちこそが、
野口教授 の書いた最初の部分・・・・・・↓
『学校でも職場でも、ナチュラルに感じよく会話ができれば、ものごとは円滑に進む。社会の流動性が激しくなり、かつてのようにずっと同じ職場で、同じメンバーと仕事をすることが当たり前でなくなれば、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作り、その場の 「空気」 をうまく読み、それを継続する 「コミュ力」 がその分だけ評価されるのも当然ではある。』
・・・・・↑これを、妄信しているのだと思う。
(これを 『 “当然” だ』 ・・・と、言ってしまう教授自身も・・かな。 まあ、私のように社会的な しがらみ が極々少ない生活では無いし、ガッコなどと言う “名誉欲に駆られた阿呆が平均値以上に居そうなメンドクサイ空間 (経験による私見です。苦笑) ” に身を置く以上は、少しはこう思ってしまっても仕方がないとは思うが・・・・。)
(しかし、この 「コミュ力」 とやら・・って言葉が、よく聞く 「空気とやら」 のように、本当によく使われているのだとしても、学者がこんな間違った使い方を 『肯定してはイカン』 と思うのだ。次回の 【2】 でも、違う言葉について、同様のことを述べさせていただくが、こういう事の積み重ねは、議論の本質を捉えにくくしてしまう・・と思う。)
・・で、今回の投稿における私の言いたいことをまとめさせていただくと、
以下のようになる。
野口教授の言う、
『ナチュラルに感じよく会話ができること や、即座に当たり障りなくフレンドリーな関係を作ること、その場の「空気」とやらをうまく読み、継続すること。』
= (イコール) コミュニケーション能力
・・・であるという前提ならば、
【自己の意見を、 言う or 言わない 】 は、
コミュニケーションの能力とは相関性がある。
しかし、
それって、コミュニケーションの能力ではなく、
『全体主義への迎合能力』
じゃないんですか?。
次回に続く
※※注1※※
私には、学が無い (ガッコは辞めさせられてるし、分野も違う) ので、社会学についての専門的な事はわかりません。野口教授の論考に関して、唯々 「なるほどなぁー」 ・・と、感じている次第です。
結局は、私が言いたい事は、 『おかしな言葉を使うべきでない』 と言うことだ。
しかし、ウチのカミサンは、野口さんの論考に、 「こんなの、今に始まったことじゃない。」 ・・と、言っていた。それについては、この投稿の続きの 【コミュニケーションについてそれらしいこと言う人たちのコミュニケーションの能力ってどうなんですかね? 2】 で触れます。
※※注2※※
この投稿を、当ブログ内のカテゴリーの 【差別・人権】 に分類したのは、この野口教授並びに、この記事に反応してそれらしいことを言っている人たちが、 (意識はしていないのであろうが) コミュニケーション障害について差別をしていると感じたからである。
このことに触れる人間がいないのは、民主主義としては問題だと思ったので、その事に関して、この投稿の続きの 【コミュニケーションについてそれらしいこと言う人たちのコミュニケーションの能力ってどうなんですかね? 2】 で述べます。
※※注3※※
『空気とやら』 ・・と書かせていただいていることについて。
もはや一般化してしまったかのような 『場の空気を読む』 とかいう言葉だが、民主主義に反する全体主義的な、意見の封殺を実行する言葉だと考えています。そのため、私はその “偽日本語” を一切使用しておりませんし、その言葉を引用する際は、実生活の会話内であっても 『その、空気とやら・・だけどよぉ・・』 ・・と言っております。
私は、体制の手先に成り下がるような言葉は使わないのです。
↓楽天の馬鹿げた商業主義の手先には成り下がっておりますが・・・。
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