※※本稿は、1月1日未明に書きました。※※
『昨年は、なんだか忙しい一年で、何にもやりたいこともできずに、
「あっ」・・と、言う間に過ぎてしまった気がします。今年は・・・・』
・・とか、ブログで書く気は無いです。
・・かと言って、書いている人を批判する気もありません。
ただ、正月だろうと盆だろうと、所詮は誰かが決めたことで、
人間の営みにとっては、何かしらの変化はあるかもしれませんが、
『生活』 と言う視点で見ると、どんな時も同じ営みの連続であることは、
明白です。
生活の、特に家事に関して言えば、毎日の連続の洗濯や掃除、
料理の準備や後片づけなど、ただただ 終わりのない日常の務めを、
粛々とこなしていくことが、生活そのものなのだと思います。
初詣も行かないし、神にも祈らない。
宗教を利用したり、神の名を利用して、人類は戦争と殺戮を繰り返してきた。
それは、この国だけではなく、世界中で・・・だ。
だから宗教など信じていない。
特に神道は、戦争を為政者との間で互いに利用し合ったにもかかわらず、
現在においてもなお、その事実への真摯な態度は見られない。
だからこそ、私はその存在を肯定するかのように、金を落とさない
(おみくじは面白いから引くこともあるけど、寺で引くことにしている。
凶ばかり出るから、飽きてしまって最近では引かない。爆笑) 。

無宗教であること・・とか、縁起を担いでも災難ばかりであった経験、
・・・などが、私を “世間の風習にとらわれない人間” につくり上げた
のでしょうが、特に、この年末年始の風習については、
自分の生き方とのギャップを大きく感じるのです。
・・・ただし、縁起担ぎのかたまりである おせち は、食べます。
その理由は、好きだから・・・好きな物ばかりを作るから (笑) 。
私が、ギャップを感じることの1つは、
【期間を区切ることで、何らかの理由を付けること】 です。
つまり、『今年こそは、・・・』 とか、言うのがどうにも腑に落ちないのです。
そもそも、自分を変えられるのは、自分だけであって、言い訳のような
タイミングを定めても、行動を起こすことに繋がるとは思えないのです。
所詮は、やらない者はやらない者のままであるし、偽善者は偽善者のまま、
悪徳政治屋は悪徳政治屋のまま・・な訳です。
それ以前に、『来年こそは、』 とか言う前に、
そう思った “今” 、さっそく取り掛かることが必要だと思うのです。
余談になりますが‥‥、
よって、ブログで新年のご挨拶をする・・とかも、考えていません。
・・が、別に、ブログであいさつをする人を批判するつもりもありません。
ただ、極めて個人的な思いの羅列であるブログに、
その様な堅っ苦しい社交辞令は、私にとっては不要なのです。
私のブログを読んで下さっている数名の方には、感謝はしておりますが・・・。
・・・と、ここまで読むと、
私と言う人間は、全く世間に逆らって生きているようでもありますが、
実生活では、季節の挨拶や風習に応じた社交辞令くらいは、
社会生活を円滑にするためにも必要であり、
私だって、実際の生活においては、そのくらいは一応、しています
(挨拶とか、年賀状とか・・・。) 。
・・・話を元に戻します。
ここ10年位を振り返ってみると、自分が 『やる。』 と、決めたことを
全くやっていない (主にモノ作りと、将来への継続的な行動のことです。
ただし、完成していないだけで、作業自体は少しづつ進んでいる。) 。
しかし、何らかの理由があって、進まない時期はある。
ガッコをクビになってからのうつの期間がそうだったのだが、
その後の 「いま」 は、生活に追われて、遅々として進んでいない時期だ
(多少の心の不調も、ない訳ではないし、他の理由もあるが・・・。) 。
過去に、共に夢を見た友人は、とっくに私を見放したようだ。
私が何の成果もあげていないからこそ、年末年始にかこつけて、
何人かの友人から、お叱りの電話が来るのだと思う。
それでも、去年も一昨年も、私は少しづつ少しづつ、
私のやるべきことを進めてきた。
自分自身を甘やかしているつもりはないが、
安泰な生活を手に入れた人から見ると、
【成功していない人=努力していない人】 ・・と、
決めつけておいた方が心が楽なのだろう。
他人のことばかりが気になっているにもかかわらず、
一番身近な自分は、歳を重ねるにしたがって、
だんだんと自らを甘やかして、日和ってしまったことには、
気づかないのか or 見ぬようにしているのか・・・は、
私には解らないけれど・・・。
他人に何を言われようと、共に夢見ることから見捨てられようと、
友人が何人去って行こうとも、
私はただ、今できることを、粛々とこなしていくだけ。
たとえ、志半ばで命が尽きようと、それはそれ。
仕方ないことだ・・・と、思っている。

『昨年は、なんだか忙しい一年で、何にもやりたいこともできずに、
「あっ」・・と、言う間に過ぎてしまった気がします。今年は・・・・』
・・とか、ブログで書く気は無いです。
・・かと言って、書いている人を批判する気もありません。
ただ、正月だろうと盆だろうと、所詮は誰かが決めたことで、
人間の営みにとっては、何かしらの変化はあるかもしれませんが、
『生活』 と言う視点で見ると、どんな時も同じ営みの連続であることは、
明白です。
生活の、特に家事に関して言えば、毎日の連続の洗濯や掃除、
料理の準備や後片づけなど、ただただ 終わりのない日常の務めを、
粛々とこなしていくことが、生活そのものなのだと思います。
初詣も行かないし、神にも祈らない。
宗教を利用したり、神の名を利用して、人類は戦争と殺戮を繰り返してきた。
それは、この国だけではなく、世界中で・・・だ。
だから宗教など信じていない。
特に神道は、戦争を為政者との間で互いに利用し合ったにもかかわらず、
現在においてもなお、その事実への真摯な態度は見られない。
だからこそ、私はその存在を肯定するかのように、金を落とさない
(おみくじは面白いから引くこともあるけど、寺で引くことにしている。
凶ばかり出るから、飽きてしまって最近では引かない。爆笑) 。

無宗教であること・・とか、縁起を担いでも災難ばかりであった経験、
・・・などが、私を “世間の風習にとらわれない人間” につくり上げた
のでしょうが、特に、この年末年始の風習については、
自分の生き方とのギャップを大きく感じるのです。
・・・ただし、縁起担ぎのかたまりである おせち は、食べます。
その理由は、好きだから・・・好きな物ばかりを作るから (笑) 。
私が、ギャップを感じることの1つは、
【期間を区切ることで、何らかの理由を付けること】 です。
つまり、『今年こそは、・・・』 とか、言うのがどうにも腑に落ちないのです。
そもそも、自分を変えられるのは、自分だけであって、言い訳のような
タイミングを定めても、行動を起こすことに繋がるとは思えないのです。
所詮は、やらない者はやらない者のままであるし、偽善者は偽善者のまま、
悪徳政治屋は悪徳政治屋のまま・・な訳です。
それ以前に、『来年こそは、』 とか言う前に、
そう思った “今” 、さっそく取り掛かることが必要だと思うのです。
余談になりますが‥‥、
よって、ブログで新年のご挨拶をする・・とかも、考えていません。
・・が、別に、ブログであいさつをする人を批判するつもりもありません。
ただ、極めて個人的な思いの羅列であるブログに、
その様な堅っ苦しい社交辞令は、私にとっては不要なのです。
私のブログを読んで下さっている数名の方には、感謝はしておりますが・・・。
・・・と、ここまで読むと、
私と言う人間は、全く世間に逆らって生きているようでもありますが、
実生活では、季節の挨拶や風習に応じた社交辞令くらいは、
社会生活を円滑にするためにも必要であり、
私だって、実際の生活においては、そのくらいは一応、しています
(挨拶とか、年賀状とか・・・。) 。
・・・話を元に戻します。
ここ10年位を振り返ってみると、自分が 『やる。』 と、決めたことを
全くやっていない (主にモノ作りと、将来への継続的な行動のことです。
ただし、完成していないだけで、作業自体は少しづつ進んでいる。) 。
しかし、何らかの理由があって、進まない時期はある。
ガッコをクビになってからのうつの期間がそうだったのだが、
その後の 「いま」 は、生活に追われて、遅々として進んでいない時期だ
(多少の心の不調も、ない訳ではないし、他の理由もあるが・・・。) 。
過去に、共に夢を見た友人は、とっくに私を見放したようだ。
私が何の成果もあげていないからこそ、年末年始にかこつけて、
何人かの友人から、お叱りの電話が来るのだと思う。
それでも、去年も一昨年も、私は少しづつ少しづつ、
私のやるべきことを進めてきた。
自分自身を甘やかしているつもりはないが、
安泰な生活を手に入れた人から見ると、
【成功していない人=努力していない人】 ・・と、
決めつけておいた方が心が楽なのだろう。
他人のことばかりが気になっているにもかかわらず、
一番身近な自分は、歳を重ねるにしたがって、
だんだんと自らを甘やかして、日和ってしまったことには、
気づかないのか or 見ぬようにしているのか・・・は、
私には解らないけれど・・・。
他人に何を言われようと、共に夢見ることから見捨てられようと、
友人が何人去って行こうとも、
私はただ、今できることを、粛々とこなしていくだけ。
たとえ、志半ばで命が尽きようと、それはそれ。
仕方ないことだ・・・と、思っている。