・・・・・(前略)・・・・
献金の見返りに 金も力もあるヤツらに 都合のいい優遇
批判するかのようなフリだけして ウヤムヤにして なんとなく肯定するマスコミ
(現在は、尤もそうに堂々と肯定する御用メディアも増えた。)
その誰かが 考えもせずに書いた 強い者の SIDE に偏った 薄っぺらな原稿
そんなの読んで 流されて 自分の頭で熟考せず
(しないクセが付いてしまって、熟考できない頭になってしまったのだろう。)
なんとなく 自分の意見を決めてしまってるから
(決めたのではなく、他人の言葉を鵜呑みにしただけなのに気づかない。)
オマエは 自分の言動や生き方を 見つめなおせない
オマエは そんな自分を・・・
・・・・(中略)・・・・
考えてるようなフリをして 自分自身を騙してみる
でも 所詮は誰かの言葉を鵜呑みにしただけの 浅い思考
しかも 脳を動かしてるのは ほんの一瞬
だから 自分の言葉が定まらないし
自分の言葉に knife が含まれているのに気づかない
それが、オマエの・・・・
・・・・・(後略)・・・・
(↑以上:誰かさんの若かりし頃の詩から引用。
いや~若いね。 “SIDE” とか、“knife” とか・・・ (笑) 。
カッコ部分は元の詩には無く、私が加えた。)
・・・って、抽象的に書くと、
なんとなーく、“それらしいこと言ってる” みたいに聞こえて、
『スゴイ、イイこと言ってる。私もそう思う。』
・・・って、思っちゃう人。
そういう人もまた、気づかない人だったりする。
【尊敬できる人】
【頼れる友人】
【心を開ける人】
【崇拝する人】
・・・それって、ホントにそうなのか?。
自分の都合のいいように、相手の抽象的な言葉を解釈していないか?。
相手が、さも完璧な人のように、思い込んでいないか?。
精神科の教科書や、心理学の教科書に教えられるまでもなく、
依存症になりやすい人にありがちな思考パターンだ
(退学させられたガッコで習うまでもなかった。
これまでの人生で、そういう人は、沢山観察してきた。) 。
誰かしらの【崇拝の対象】や、
【信じられる友人】とやらを
都合よくつくり上げて、
自分が1人でないことを確認する。
一応、書き加えると、
・・・同様に、
【嫌いな人】
【間違った意見の人】
【この人の方針はズレている】
・・とか、
【この人の擁護する人は、堕落した人で、自己責任】
【社会的弱者って、本人が好きでなったんだろ】
【病気になるような生活を、好き好んでしてたんだろ】
【経済の為には、仕方ないじゃん。重い病気の人に金をかけるのは無駄】
・・とかも、
よ~く考えてから、そう思うのか?。
自分の都合のいいように、相手の言葉の重要部分を見落としてない?。
その人の述べている事柄を、一方向からしか見てないんじゃない?。
専門知識を持った上で言ってるの?。
自分は全てを知ってるつもりなの?。
自分の経験では判断できない様な事実があるかもしれない・・って、思わない?。
簡単だし、楽なんだよな。
何も考えないのに、考えたような気になって、
誰かの仰々しい言葉や、また 素直そうな言葉を、
『正しいんだ!。』 ・・と、認定して、
自分の考えたことのように思い込むのは。
だって、
脳を動かすのは、エネルギーを消費するし、ある種の 「慣れ」 も必要だから。
映像メディアばかり見て、言語の表す 所・モノ を、
多角的に論理的に分析できなくなった 大多数の大人には、
小学生の頃に算数や理科で思考した過程を、もう一度やり直すのは、
相当に困難なのだろう
(カラッポな奴に限って、それらしい聞きかじったようなことを、
尤もそうに述べてみたりするけれど、そこかしこにボロが出てる。
論理的に分析する力が失われてるから、よくわからんカタカナ語とか
多用したりする。笑) 。
前述したが、こういう思考パターンの人って、さまざまな依存症になりやすい。
自分の行動を、都合のいいように解釈して、意味付けする。
勿論、誰かを崇拝したり、都合良く 【信じられる友人】 とか、【親友】 とかを
作り上げることそのものも、依存症の一種だ。
また、誰かさんの高校生の頃の詩の一部を引用して、締めくくります (以下↓) 。
オマエは いつも カラッポだ
尤もそうに自由を語るクセに 足枷をしてることに気づかない
大勢に支持されている ハヤリ歌の陳腐な歌詞や
尤もそうに話す誰かの言葉のカケラに 陶酔して
今日も 決まった時間に オマエの動脈は 活性化する
でも 本当は 自分が何も考えてないことに・・・
オマエは 永遠に・・・・・
気づかない
※※ 追記 ※※
私は、生存する特定の人物を偶像崇拝したりしない。
友人であっても、親友であっても、間違っていると思うことは指摘するし、
道を踏み外すならば、容赦なく関係を切る。
その結果、私がひとりぼっちになっても構わないと思ってるし、
これまでも そうやって生きてきた。
ここからは、余談だけど・・・、
そのような生き方が、“はみ出し者” の原因ではないと思う。
原因は、他にある。
ただ、“はみ出し者” だった経験が、『一人ぼっちでも大丈夫。』 ・・と、
思える自分を作り上げたことは、間違いがない・・・と、思う。
今、生きるのがつらい人には、
『あなたはカラッポじゃないから、つらいんだよ。カラッポのヤツラは、つらくない。
この経験が、あなたを強くする日が、必ず来る。
どうしてもつらい時は、逃げたっていいんだ。その経験もあなたを強くする。
だから、決して自暴自棄になってはならないし、死んではいけない。』
・・って、言ってあげたい。
こんな広告載せといて言うのもナンですが、
買い物依存、インターネット依存にも、気を付けましょう・・・。




献金の見返りに 金も力もあるヤツらに 都合のいい優遇
批判するかのようなフリだけして ウヤムヤにして なんとなく肯定するマスコミ
(現在は、尤もそうに堂々と肯定する御用メディアも増えた。)
その誰かが 考えもせずに書いた 強い者の SIDE に偏った 薄っぺらな原稿
そんなの読んで 流されて 自分の頭で熟考せず
(しないクセが付いてしまって、熟考できない頭になってしまったのだろう。)
なんとなく 自分の意見を決めてしまってるから
(決めたのではなく、他人の言葉を鵜呑みにしただけなのに気づかない。)
オマエは 自分の言動や生き方を 見つめなおせない
オマエは そんな自分を・・・
・・・・(中略)・・・・
考えてるようなフリをして 自分自身を騙してみる
でも 所詮は誰かの言葉を鵜呑みにしただけの 浅い思考
しかも 脳を動かしてるのは ほんの一瞬
だから 自分の言葉が定まらないし
自分の言葉に knife が含まれているのに気づかない
それが、オマエの・・・・
・・・・・(後略)・・・・
(↑以上:誰かさんの若かりし頃の詩から引用。
いや~若いね。 “SIDE” とか、“knife” とか・・・ (笑) 。
カッコ部分は元の詩には無く、私が加えた。)
・・・って、抽象的に書くと、
なんとなーく、“それらしいこと言ってる” みたいに聞こえて、
『スゴイ、イイこと言ってる。私もそう思う。』
・・・って、思っちゃう人。
そういう人もまた、気づかない人だったりする。
【尊敬できる人】
【頼れる友人】
【心を開ける人】
【崇拝する人】
・・・それって、ホントにそうなのか?。
自分の都合のいいように、相手の抽象的な言葉を解釈していないか?。
相手が、さも完璧な人のように、思い込んでいないか?。
精神科の教科書や、心理学の教科書に教えられるまでもなく、
依存症になりやすい人にありがちな思考パターンだ
(退学させられたガッコで習うまでもなかった。
これまでの人生で、そういう人は、沢山観察してきた。) 。
誰かしらの【崇拝の対象】や、
【信じられる友人】とやらを
都合よくつくり上げて、
自分が1人でないことを確認する。
一応、書き加えると、
・・・同様に、
【嫌いな人】
【間違った意見の人】
【この人の方針はズレている】
・・とか、
【この人の擁護する人は、堕落した人で、自己責任】
【社会的弱者って、本人が好きでなったんだろ】
【病気になるような生活を、好き好んでしてたんだろ】
【経済の為には、仕方ないじゃん。重い病気の人に金をかけるのは無駄】
・・とかも、
よ~く考えてから、そう思うのか?。
自分の都合のいいように、相手の言葉の重要部分を見落としてない?。
その人の述べている事柄を、一方向からしか見てないんじゃない?。
専門知識を持った上で言ってるの?。
自分は全てを知ってるつもりなの?。
自分の経験では判断できない様な事実があるかもしれない・・って、思わない?。
簡単だし、楽なんだよな。
何も考えないのに、考えたような気になって、
誰かの仰々しい言葉や、また 素直そうな言葉を、
『正しいんだ!。』 ・・と、認定して、
自分の考えたことのように思い込むのは。
だって、
脳を動かすのは、エネルギーを消費するし、ある種の 「慣れ」 も必要だから。
映像メディアばかり見て、言語の表す 所・モノ を、
多角的に論理的に分析できなくなった 大多数の大人には、
小学生の頃に算数や理科で思考した過程を、もう一度やり直すのは、
相当に困難なのだろう
(カラッポな奴に限って、それらしい聞きかじったようなことを、
尤もそうに述べてみたりするけれど、そこかしこにボロが出てる。
論理的に分析する力が失われてるから、よくわからんカタカナ語とか
多用したりする。笑) 。
前述したが、こういう思考パターンの人って、さまざまな依存症になりやすい。
自分の行動を、都合のいいように解釈して、意味付けする。
勿論、誰かを崇拝したり、都合良く 【信じられる友人】 とか、【親友】 とかを
作り上げることそのものも、依存症の一種だ。
また、誰かさんの高校生の頃の詩の一部を引用して、締めくくります (以下↓) 。
オマエは いつも カラッポだ
尤もそうに自由を語るクセに 足枷をしてることに気づかない
大勢に支持されている ハヤリ歌の陳腐な歌詞や
尤もそうに話す誰かの言葉のカケラに 陶酔して
今日も 決まった時間に オマエの動脈は 活性化する
でも 本当は 自分が何も考えてないことに・・・
オマエは 永遠に・・・・・
気づかない
※※ 追記 ※※
私は、生存する特定の人物を偶像崇拝したりしない。
友人であっても、親友であっても、間違っていると思うことは指摘するし、
道を踏み外すならば、容赦なく関係を切る。
その結果、私がひとりぼっちになっても構わないと思ってるし、
これまでも そうやって生きてきた。
ここからは、余談だけど・・・、
そのような生き方が、“はみ出し者” の原因ではないと思う。
原因は、他にある。
ただ、“はみ出し者” だった経験が、『一人ぼっちでも大丈夫。』 ・・と、
思える自分を作り上げたことは、間違いがない・・・と、思う。
今、生きるのがつらい人には、
『あなたはカラッポじゃないから、つらいんだよ。カラッポのヤツラは、つらくない。
この経験が、あなたを強くする日が、必ず来る。
どうしてもつらい時は、逃げたっていいんだ。その経験もあなたを強くする。
だから、決して自暴自棄になってはならないし、死んではいけない。』
・・って、言ってあげたい。
こんな広告載せといて言うのもナンですが、
買い物依存、インターネット依存にも、気を付けましょう・・・。





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